人間は両親から生命を授かりこの世にと言う「人生」を歩み出す。
若いうちは、希望に燃え地位や名誉、はたまた欲望という名の金銭を必要以上に求めることがある。若いが故に誰もが欲するのは理解できる。
しかしどうであろうか?最初は1つの欲望を満たし、次には限りない欲望を満たすために自身では抱えきれない程の「欲望」という重荷を背負って居ることに気づかず生涯を終える人も多いのではないだろうか。
仏教では「執着」という「欲望」から離れて寺社に僧侶(仏教教団)に寄付をし功徳を積むことを勧めている。
別の呼称では「喜捨(きしゃ)」と呼び喜んで捨てることともされている。
人生100年時代を迎え、人生の終焉を迎えるに辺り一つ一つの荷物を下ろしてはいくのも良いのではないだろうか。
山の頂はもうすぐそこであることを考える年を迎えた人々に一考頂きたい今日この頃である。
あくまで、既存仏教教団の一端であり、新興宗教の考えとは一線をかくすものです。
一昨年から教誨師を拝命し、函館少年刑務所に月一度の教誨講話に出向いております。
写真は函館少年刑務所の正門前の写真です。
毎回一時間の講話を行いますが多いときで10人前後、少ないときは1人ということもあります。
拙僧が話すこと事と言っても真言宗枠で管区に配属されましたので、真言宗の話をするのが本筋でありますが、わりと雑談を交えて世間話の延長線上に仏教全般というか宗教的な講話をしております。
函館少年刑務所は最大800人の収容者を受け入れる事が出来ますが、最近では少子化傾向からか収容者も少ないようです。
2008年がピーク人数の収容者だったそうですが、最近は少ないようです。
秘匿の関係上、あまり詳細は言えませんがそれぞれの罪を補うために規律正しい生活に励んでいます。
連休明けの24日には早朝から函館少年刑務所に2月の教誨講話へ出向きます。
早朝午前3時には身支度を整え往復450キロ弱を車で出かけますが、冬は高速が止まったり、ホワイトアウトで2,3回は休憩を兼ねて道の駅等で休みながらの道中です。正に命がけの函館訪問ですが、収容者が拙僧を待っていてくれる思いに気が引き締まります。
正に此方が学ばされる事が多いと感じる重責の瞬間があります。
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